昨日は、半年に1度のわたしの定期検診の日だった。
血液検査やエコー等々の検査は、10日前に済んでいた。
予定では検査後に行われる主治医の診察が、この日は急なご都合で先生が外来に出られなくなったため、診察のみ昨日に延期になったという経緯があった。
主治医の外来はいつも混んでいる。
予約を入れていても、1時間、2時間待つ。
昨日も長時間待つ覚悟で、いま読んでいる本を読み終えるぞと思いながら本を読んでいた。
そこへ、看護師さんがわたしのところへやってきて、「処置があるので、処置室へ行きましょう」と言われた。
何の処置??
処置室に入ると、「ここにいてください」と、わたしの主治医の名前が記されているベッドへと案内された。(各科のドクターの名前が記されているベッドが10くらい置いてある、大きな処置室なのだ)
この病院へは10年以上通っているが、こんなことは初めてだ。
何?どういうこと?
隣のベッドでは、医師と患者が、何か深刻そうに、これからCT検査をしましょう、すぐに入院も…という話をしている。
何?何?
10日前のわたしの検査結果に、深刻な異常があったのだろうか?
悪性が疑われるような検査結果だったのだろうか?
それは困る。
わたしが入院ということにでもなったら、父をどこかに預けないと、今の父はわたしの生活援助なしには暮らしていけない。
ケアマネさんに相談しなければ…
いま取りかかっているイベント準備のリーダーの仕事も、誰かに代わってもらうよう相談しなければ…
まず今日だ、わたしが今日そのまま入院ということにでもなって、もし家に帰れなかったら、父と義母の夕食をどうにかせねば…
夫が今日はいないので、長女に頼んで、コンビニでお弁当を買って、持って行ってもらうか…
あれもこれもと、脳の高速回転が止まらない。
わたしも母と同じように闘病のすえ、60代で今生を終えるのかも…
父はどうなるんだろう?
わたしがいなくても、父が安心できる環境を整えなくては…
ああ、もう脳のおしゃべりが止まらない。
そうだ、こういうときは、観音菩薩の慈悲の涙から生まれたというターラー菩薩の真言を唱えよう。
真言を心のなかで何度も何度も何度も唱えた。
何度も唱えていると、やがて脳のおしゃべりは止まった。
わたしが考える段取りなど、しょせん「わたし」が安心するためのものだ。
全体や世界や人生の「流れ」は、わたしの段取り通りには流れない。
どんな「流れ」がやってきても、たとえ悪性腫瘍が見つかったのだとしても、その「流れ」にYES!!を言い、今ここの風景を見ながら、「流れ」に調和しよう。
主治医の話を聞くまで、今は、からっぽでいよう。
看護師さんが、主治医の診察室に案内してくれた。
主治医は、わたしが椅子に座るのを待たずに、
「立派ですよ。」と言う。
「え?」
「血液検査も他の検査も、すべて異常なしで、立派です。」
「そうなのですか?」
「はい。」
「わたしは処置室に呼ばれたので、なにか深刻な結果が出ていたのではないかと、ドキドキしていましたよ。」
「あ、ほら先日、診察日を私の都合で変えていただいたでしょう。申し訳なかったです。」
「…ああ、そうなのですか。。ご配慮くださったのですね。」
「申し訳ありません。<呼び出し>ではありません。」
「ええ…。勘違いで、よかったです。ありがとうございます。」
主治医は、受診日を変更してもらった患者に、混雑した待合室で長時間待たなくても済むようにと、ちょっとスペシャルな配慮をしてくださったのだということがわかった。
先生のご配慮は、ありがたくて嬉しかったけれど、自分の妄想に疲れたw
アドラーによれば、夢は未来の予行演習であって、起るかもしれないことにどう対処すればうまくいくか、どう対処すればうまくいかないかを、実験しているのだという。(A・アドラー『個人心理学講義』一光社 第七章「夢とその解釈」)
今回の「勘違い」妄想は、夢ではないのだが、わたしにとっては、未来の予行演習、リハーサルのように思えた。
「流れ」に調和して生きていくためには、「わたしの段取り」に執着しないこと、今ここでの全体や世界や人生の関心に関心を持ち、ほんとうの意味で役立つ行動を選択するオープンネスが必要だということ、そのリハーサルだったように思えた。
…いつも結局ここに戻る。
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春キャベツ、たけのこ、春にんじん。
春の野菜は、やわらかく、香りよく、みずみずしい。
冬の献立から春の献立に変わる。
花粉症もピークを越えた。
外へ出ていこう。
暮らし方も変わる。