「二人三脚」はお嫌い

先日父が、訪問診療から2月分の領収書が来ていないからと、診療所に電話したら、

確かに送っていますと言われて、今度は郵便局に電話したら、滞っている郵便物はないと言われたそうで、

「一体どうなっとるんじゃ」とたいそう不機嫌だった。

…結局、領収書は家を探すとあったw

父が「ありました」とお詫びの電話をすることもあれば、わたしが代わりにお詫びの電話をすることもある。

こういうことが、父と介護サービス機関との間で、度々起こるようになった。

父は電話はするが、かかってきた電話には出ないと決めている。

先方からわたしのところへ、お父さまからこんな電話があって…と電話をいただいて、わたしが知るということもある。

 

わたしは「二人三脚」のかたわれとして、

父に、「電話する前に、一言わたしに確認してほしいの。わたしが探したり何かして解決すれば電話する必要ないし、解決しなかった時には電話してもらえるかな。」とお願いした。

父は黙っていたので、

「お父さんとわたしは、二人で一人だから。」と言うと、

また父は黙っているので、言葉を変えて、

「お父さんとわたしは、二人三脚だから。」と言うと、

父が、ものすごく悲しそうな顔をした。

ものすごく悲しそうな父の顔を見て、わたしも、ものすごく悲しくなった。

父は「二人三脚」は嫌なのだと、このときわたしは気づいた⚡

 

ちょうど、スーパーバイザーが来られるカウンセリング学習会があったので、クライエントとしてこの事例をお話させてもらった。

カウンセラーさんは熱心にお話を聴いてくださって、エピソード分析をしてくださった。

 

カウンセリングとカウンセリング後のスーパーバイズでわたしが学んだことは、

この事例の構造は、父の課題に父がほんとうは望んでいないのに、わたしが「二人三脚でしょ」とズカズカ介入して、父の尊厳を傷つけている、ということだw

このことが、父に「二人三脚」の意味として伝わったw

父は何事も自分で決めたい人だし、自分のタイミングで自分でやりたいのだ。

そもそも「一緒にやる」とか「二人三脚」は、「あなたは自分ひとりでやる能力がない」という、父のプライドを傷つけるメッセージとして届くのだw

ちょっと痛いけれど、よく理解できた。

 

だが、どうすればいいのか…

 

現実として、父の退院時に、主治医から、今の父の状態だと、施設に行くか、手厚い在宅介護でいくかという選択肢を提示されて、父はできるだけ住み慣れた家にいたいと言い、わたしもそうしてほしいと思い、「手厚い在宅介護」を選んだ。

退院後も父はリハビリをがんばって、退院時よりはだいぶ良くなったけれど、今なお多くの生活援助は必要だ。

父がやりたいことを父のタイミングでひとりでやってもらうことは、ある場合はうまくいくかもしれないが、ある場合はそうでないかもしれない…と、いろいろグルグル考えてしまう。

 

だがまあ、四の五の言っていても、何事もやってみないとわからない。

言葉ではっきりと頼まれたことだけ手伝い、それ以外は父がやりたいことを父のタイミングでひとりでやってもらおう!と思った。

もし人々に迷惑をかけることがあったり、父自身が混乱するようなことがあれば、後始末とか調整とかは、わたしが引き受ける覚悟もした。

やってみて、また考えよう。

 

かさねて、父が父らしく尊厳が傷つくことなく暮らしていけるよう、わたしは「構え」として、尊敬を学ぶ必要がある。

 

父は現役時代に管理職だったので、わたしは、ボスを支える「秘書官」のペルソナで対応しては? というアイデアをいただいた。

「秘書官」は、ボスに何でもお伺いをたてて、ボスに決めてもらう。ボスが仕事をしやすいように、ボスにお伺いをたてながら、対内的にも対外的にも整える。

何はともあれ、やってみよう。

ワクワクしてきた。

「正しいワタシ、間違っている父」で父を裁いてどんよりしてしまうところを、こうしてアドラー心理学に助けられて、介護生活のなかでの清明をなんとか保てている。ありがたい。

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今日の庭の草花。

オレンジとピンクの八重咲きのアネモネと、名前がわからない剣弁高芯咲きのピンクのバラ、紫の花はディノスギボウシの葉っぱ、山椒の葉っぱ。

春爛漫の季節となってきた。

こちらもワクワクだ。