所属

昨日はアドラー流山の11月の定例会だった。

いつも思うのだが、参加すると心のお掃除ができ、これからできることが見える。大変ありがたいことだ。

 

今回参加するにあたって、わたしが抱えていたエピソードは、

数日前の朝、父の着替えを手伝っているときに、父が「もう死んでもええんじゃがのぉ(もう死んでもいいのだがね)」と言ったときのことだ。

その言葉を聞いて、わたしは父がかわいそうで、泣きそうになった。

涙をこらえて、

「いやいやお父さん、天寿ってものがあるよ。天寿を全うしなきゃねえ。」と明るく言った。

父は黙っていたが、わたしはそれ以上なんと言っていいかわからなかった。

…というエピソードだ。

 

午前の部では、お若いパセージリーダーさんがパセージ第8章の通し稽古をなさった。ゆったり安心してみんながお話できる場を作っていくリーダーさんだ。

わたしも、メンバーとしてゆったり安心して参加した。

パセージ第8章の「二つの能力」というページの「2. 貢献する能力」に、

子どもがいるために、あなたの生活が、身体的にも精神的にも、どんなに充実しているか、もし子どもがいなかったら、どんなに空虚になってしまうか考えてみてください。

という一文がある。

「子ども」を「父」に置きかえてよむと、ほんとうにそうだなあと思った。

今のわたしの生活は、以前よりも「自由」が減ったのかもしれない。毎日毎日、日曜祭日関係なく、朝から晩まで父のお世話の繰り返しだ。父がとんちんかんなことを何度も何度も言うことに疲れたりもする。

だが、父の衣食住のお世話をさせてもらって、父とたくさん関わり、父や父の家の清潔を保ち、おいしいものを食べてもらい、安全に暮らす手伝いは、わたしにとっては、たしかに充実感がある。

在宅介護という分野について知らなかったことの勉強もさせてもらっている。

父がいなくなると、たしかに、ぽっかりと穴があいたように空虚になるだろう。

今の父によって、わたしは、人生での役割、人生の意味を与えてもらっていると思う。(もちろん、わたしが、その役割と意味、を自ら選んでもいる。)

父は、存在そのものによって、わたしにたくさん貢献してくれている。

そもそも、わたしは父に育ててもらった恩がある!

父にもっと感謝を伝えよう ! 折あるごとにもっと積極的に伝えよう ! と、午前の部で学ばせてもらった。

 

午後の部は、エピソード分析の学習会だが、エピソード分析に入るまえに、いつものように、エピソード分析をささえる『基本前提の歌(野田俊作)』の読み合わせとディスカッションをした。

『基本前提の歌(野田俊作)』10番に

所属のために選ぶ方法は

人ごとにみな違うものであり

それが個人の個性をつくり出す

いかなる個性も所属に向いている(10)

とあるのを読んで、みなさんのディスカッションも聞いて、

そうか!父の「もう死んでもええんじゃがのぉ」も、所属に向いているのだ!と気づいた。

たとえ、父が「身体が動かなくなって朝も昼も夜も寝ているばかりで、人の世話になってばかりの自分が情けない、この世の所属から離れて、もうあの世に行きたい」と思っているにしても、

父の「もう死んでもええんじゃがのぉ」という言葉は、この世の所属に向いている。そして、相手役はわたしだ。

…というアドラー心理学の基本前提は、「わたし」が「わたしにできることがある」ということに導いてくれるので、とても助けになる。

 

わたしは、父がかわいそうだと泣いていないで、

父が、今の父のままで、命尽きるまで、わたしやみんなと苦楽をともにして、与え合ってこの世に所属していけるよう、「わたしにできること」をしたい。

 

さいわい午前の部で、父は、今の父のままで、わたしにたくさん与えてくれていることに気づかせてもらった。

そして、苦楽をともにしていきたいと思った。

目の曇りがとれて、本当に大切なことが見えた。

ありがとうございました。

 

午後の部の、グループでのエピソード分析も大変感動した。

事例提供者さん、リーダーさん、書記さん、みなさん、ありがとうございました!


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近所の県立公園の入口ふきん。

雲ひとつない秋晴れだ。

いまの心境にぴったりだ。…状況が変わったりして、かならずまた曇ると思うが、まあ、なんとかやっていけるだろう。