早期回想を話して、
…わたしは、ひとりっ子ということへの劣等感が、けっこう根深いことに気づいた。
小さい頃の思い出のなかでは、わたしは、祖父母・両親・12歳年上の叔母という、大きな大人たちに囲まれて育ったという印象が強くある。
可愛がってもらったのだが、どこか「お世話をされる小さな私=無力な私」と自身を解釈し、それはダメなことで、お世話のできる、しっかりした人になるべき、もっとやれるはずと思ってがんばるクセがある。
そうでないと、わたしは家族や人々の仲間になれない(所属できない)と信じているようだ、
今でも、わりといつも、まだ足りない、もっとやれるはずと思っているw
カウンセラーさんから「過補償ですねw」と言われ、
わたしをよく知ってる仲間たちも「うん、うん」とニコニコして強くうなずいているが、
「いやいや、まだ足りないんですよ~」、と本気で答えるわたしwww
父の介護のことでも、まだ足りない~、もっとお世話がんばらなくては~、もっとしっかりせねば~と思っているw
介護は、ずっと気を抜けないお世話だとわたしは思っていて、いくら「同じ時間に同じことをする」に馴れたとはいえ、わたしにとってはお世話のレベルが高いw。
ひとりで背負うのはちょっと重いなあと感じながら、毎日がんばっている。
で、わたしのこのがんばりを父がちゃんと見ていてくれて「わかってくれている」という、仮想的目標を求めていたのだということも、今回よくわかったw。
…早期回想のわたしのままだw
さいわいなことに、アドラー心理学を学んだので、早期回想とは別の考え方や方法を選択することもできる。
そもそも、わたしは、父の在宅介護を選んだ。
今、この世界で、老いた父に、毎日「同じ時間に同じことをする」のは、この世でひとり、父の子どもであるわたししかいないのだ。
のっぴきならない、この世界でのわたしの役割だと思っている。
父に「わかってもらう」ことはかなわなくても、楽しんで「同じ時間に同じことをする」ことも選べるし、苦しんで「同じ時間に同じことをする」こともわたしは選べる。
…「楽しむ」というより「粛々と」というのが、今しっくりくる。
禅侶が、仏さまの住む場所であるお寺のお掃除や料理のお世話を、瞑想的に、しずかに、つつしんで、丁寧に行うさまが、わたしにとって、「粛々と」の意味だ。
六波羅蜜にも重なる。
父をはじめ、周囲の人々や、目に見えないものとの、空間的・時間的なつながりを感じながら、
身の丈で、
今すべきことを粛々と重ねていこう。
(おわり)