長尾和宏著『痛い在宅医』(ブックマン社)を読んだ。
末期がんの父親が亡くなるまでの時系列の記録、父親の死後に行われた、父親の在宅医・病院事務長・訪問看護師と娘さんとの面談の逐語録、著者と娘さんとの対話、著者の見解などで構成されている。
とても他人事とは思えず、一気に読んだ。
こちらのブログで紹介されていた。ありがとうございました。
“愛の重みと最期の選択・・・生きるとは?” - 花ワン diary (hatenablog.com)
著者は、在宅医として、これまでたくさんの著書を書いてきている。
その著者が、この本のなかで、
病院か在宅か、という二元論でしか僕は今まで語っていなかったとしたら、そして在宅医療の美談しか語っていなかったとしたら、心から謝ります。どこで死ぬかが問題じゃない。どう死ねるか、どう見送れるか、なんだ。(pp.176‐177)
と述べている。
看取りについて、考えさせられた。
そして、いま父がお世話になっている在宅医(訪問診療医)と訪問看護師さんで、よかったとも思った。
何がよかったかというと、父が入院していた病院の付属の訪問診療所&訪問看護師さんたちなので、父の治療の引き継ぎも、カルテ共有のもと、病院での主治医から訪問医師&訪問看護師さんへとスムーズに行われた。
退院後に、初めて訪問診療医がいらしたとき、娘のわたしも交えて、どんな風に命を終えるかについて、いろいろと話をする時間を持ったこともよかった。
このいろいろと話をする時間は、この著書に書いてある『Advance Care Planning』だったのだ。
リビングウィルもアドランス・ケア・プランニングの一部、あるいは核であると考えてください。決定的に違うのは、リビングウィルは自分で書く一人称の希望だけど、アドバンス・ケア・プランニングはみんなで話し合うプロセス(p.57)
とある。
知らなかった…
訪問診療医のさまざまな問いのなかに、「どこで命の終わりをむかえたいですか?」という問いもあった。
その問いに、父は「わかりません」と言ったことを思い出した。
訪問診療医も、「ぜったいに自宅でと言われても難しい場合があります」とおっしゃっていたことも思い出した。
まさに、在宅か病院か、二元論では語れないということだと思った。
ある場合は病院にいた方が苦しいかもしれないし、ある場合は自宅にいた方が苦しいのかもしれない。
自宅での看取りは、看取る側の覚悟もいる。
在宅医の覚悟もいる。
在宅では医療的なコントロールができず、痛みや苦しさでのたうちまわるのなら、痛みや苦しみをコントロールできる病院のほうが、看取られる側も看取る側もしあわせだと思う。
この本で一番印象的だったことは、訪問診療医との患者および家族との対話と「家族の物語」の共有によって、在宅医療にかかわる人々がワンチームになることの大切さだ。
訪問診察医や訪問看護師さんと、父と一緒にたくさん話をしたいと思った。