夫と義母と3人で、義父の祥月命日のお墓参りに行った。
義父が亡くなって12年になる。
今から17年前に、義父が、新潟県にあった先祖代々のお墓を、近所のこの墓苑に移した。
義父母が、こちらへ移住してきたことで、お墓のお世話が大変になったからだ。
うちから車で20分ほどで行ける。
周囲は田んぼなので、遮るものがなく、晴れていると富士山が見える墓苑だ。
墓碑には、義母の手描きのツツジの花の絵が彫ってある。
義父母の心がたくさん込められているお墓だと思う。
わたしは元々、お墓というものにあまりこだわりがない人だと思う。
身体は、無常のはたらきによって、時間とともに変化し、老・病・死を経て遺体となる。遺体は、脱いだ洋服のようなもので、もう「わたし」ではないと思うのだ。
死んだあとの「わたし」は、世界に溶け込んで、至るところに遍満していると思うのだ。
…とはいえ、17年間、お彼岸や盆暮れ、義父の命日や法事などで、お墓参りを重ねていると、このお墓に慣れ親しんできた。
お隣やお向かいのお墓にも、「こんにちは」を言っているわたしがいる笑。
お墓に手を合わせると、わたしが知っている義父や義祖母のことを思い出す。義父母から聞いた、ご先祖さま方の逸話も思い出す。
子どもや孫たちが一緒に来れば、義父や義祖母やご先祖さまの話をするだろう。
そうやって、お墓は、家族の文化や物語を次世代に伝承し、家族のメンバーとしての所属感を時間軸で確認する、そういう意味をもつ場のひとつだと思うようになった。
義母は足が悪いので、いつものように管理棟で座って持っていてもらい、夫とわたしでいつものように、お掃除をして、義母が選んだお花とお香をお供えした。
そして、いつものように、義母を連れにゆき、3人でお墓に手を合わせた。
お天気もよく、佳いお墓参りだった。
つぎにお参りするのは、お彼岸だ。