見返りを求めず

今月のオンラインでのアドラー英語読書会は、

Eva Dreikurs『Adlerian Theory :An Introduction 』(対訳版『エヴァ・ドライカース『アドラー心理学へのいざない』大竹優子・河内博子訳)の39ページを読んでいった。

 

「Dreikurs described the four mistaken goals of chaildren who do not feel they belong and whose goal is not that of contribution.(ドライカーズは、所属を感じておらず貢献を目標にしていない子どもたちの四つの誤った目標を提示しました。)」

のなかの、おもに注目・関心の目標について考えた。

 

「注目・関心を集められたときだけ自分には価値があり、そのときだけ所属できている」と子どもが結論づけてしまうのは避けたいことだ。

そのために、子どもとかかわる親や教師や援助者として、どんなことができるだろうか?

ドラえもんに出てくるキャラクターなどをもとにディスカッションしたのが、おもしろかった。

 

「子どもの不適切な行動に注目を与えず、適切な行動をしたときに、正の注目を与える」「『不適切な行動』の中にある『適切な側面』を探して、正の注目をする」が、基本中の基本で、有効だろう。

だが、自分自身の経験から、これは深いと思う。

なにせ自身の凝り固まった私的感覚をゆるめたり、時には手放す練習が必要だった。

自分とは違った見方をしてくれる、ともに学ぶ仲間の存在に、わたしは随分と助けられたことを思い出した。

 

それはそれとして、そもそものところで、「貢献を目標とすること」について、時々、考えることがある。

貢献は善いことだ。

だが、「貢献したぞ」と喜び、「わたしは貢献しているもんね」と思えば思うほど、自我が肥大して、いやな人になっていくように思うのだ。

また、貢献的なことをした結果、感謝されなくて、「こんなにしてあげたのに…」とマイナス感情が動いたとしたら、それは少なくとも貢献が目標ではない。

たとえば「称賛を得ること」だと思う。

この場合、貢献は、自分を利するための手段となっている。

 

仏教に、「三輪清浄の布施」というのがある。

「誰が」「誰に」「何を」という3つを忘れて自然に布施(善行)を行うというものだ。

願わくはそのように貢献したいものだ。

そこまでは無理だとしても、ただ淡々と、見返りは求めず、人々のために自分にできることをしていきたいと思う。

 

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今日は一日ずっと雨で、寒い。

こんな日は、生姜たっぷりの熱いチャイを飲んで、まったり過ごすのが好きだ。