「どちらでもない」の可能性

流山のフォロー会に参加した。

今回わたしが学んだことは、「良いか悪いかどちらでもないか」の「どちらでもない」の可能性についてだ。

 

アドラー心理学『基本前提の歌』(野田俊作)に、

事象を個人が認識したときに

良いか悪いかどちらでもないか

無意識的に判断するのだが

根拠を私的感覚などと呼ぶ(36)

とある。

 

確かに、わたしたちは事象を認識したときに、無意識的に、「良いか悪いかどちらでもないか」を判断して、行動のしかたを選んでいると思う。

「良い」も「悪い」も「どちらでもない」も仮想であるが、

「良い」と判断すると、喜んだり安心した行動をする。

「悪い」と判断すると、「良い」方向になんとかしようとしたり、あるいは嘆き悲しみに暮れて過ごすかもしれない。

「どちらでもない」と判断すると、多くの場合、なにも気にとめないように思う。

 

今回、この「どちらでもない」について考えてみた。

たとえば、ブツブツ文句を言いながら仕事に取り組む人がいたとして、

そうした仕事の取り組み方は、わたしにとっては好みではなく、「悪い」に分類されるかもしれない。

だが、一旦立ち止まって、「どちらでもない」に分類できるかもしれないと考えてみたら、どうだろう…。

もしかすると、仕事はちゃんとしているのだし、重大な悪影響や破壊的なことは何も起こっていないし、「悪い」ことではないかも…と少し判断が変わるかもしれない。

さらに、「ブツブツ言うことでその人なりに息抜きしながら仕事に取り組んでいる」というように肯定的・協力的な判断に変化することもある。

 

 

「どちらでもない」、つまり「良い」と「悪い」の中間ゾーンには、協力的な暮らし方の可能性がたくさん含まれている。

「どちらでもない」を意識的に掘り起こしていくことで、私的感覚が成長していくように思った。

そんなことを学ばせてもらった一日だった。

ご一緒してくださったみなさん、ありがとうございました。

 

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