記憶(2)

今日は訪問看護師さんが、父の健康チェックと、父をお風呂に入れてくださった。「風呂にゆっくり浸かるのは、ええのお~」と上機嫌の父だった。よかった、よかった。

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父の記憶力の低下のことから、むかし読んだ小川洋子の『博士の愛した数式』という本を思い出す。

探してみたけど、うちにはもうこの本はなかった。古書店に出したのだろう。

検索すると、以下のような紹介文があった。

[ぼくの記憶は80分しかもたない]博士の背広の袖には、そう書かれた古びたメモが留められていた──記憶力を失った博士にとって、私は常に“新しい"家政婦。博士は“初対面"の私に、靴のサイズや誕生日を尋ねた。数字が博士の言葉だった。やがて私の10歳の息子が加わり、ぎこちない日々は驚きと歓びに満ちたものに変わった。あまりに悲しく暖かい、奇跡の愛の物語。

そういえば息子も登場していたっけ…。

わたしとしては、主人公の「私」が、記憶力を失った博士と、最初はどうつながってよいか困惑したが、博士の愛する数字によって、深くつながれた、ということが、記憶に残っていた。

その連想で、父のことを思う。

父は長年、財務や税務という数字を扱う仕事をしてきた。

父の数字愛は、数学者の「博士」とは違うが、なかなかのものだ。

「数字愛」という視点で見ると、父との物語が変わるような気がしてきた。

 

むかしはずいぶん、税金のことや確定申告などで父に世話になった。(わたしは苦手…)

いまは「疲れるから難しいことはもう考えんことにした」そうだが、わたしが報告する買い物の明細と合計がぴったり合っているとか、請求書と銀行の引き落しがぴったり合っているとスッキリして嬉しそうだ。

時間や日にちも、きっちり決め、きっちり守られていると満足そうだ。

薬の数もしっかり把握していて、1包の無駄なく、薬ごとに、先生に処方箋を書いてもらう。

水に溶かして飲む薬を50回混ぜて服用すると言われれば、ほんとうにきっちり50回数えて混ぜている。

 

退院後とくに、父が話すことがそんな話ばかりで、「細かすぎる」「もう勘弁してよ」とイライラするときがある。

だが、『博士の愛した数式』の連想から、父と「博士」が重なって、優しい物語を紡げそうな気がしてきた。父は、いまは、数字によって、この世に所属しているのだと思える。

 

数字に関しては、父の記憶力は抜群だ。忘れないようにメモの山もある。

父に関わる人々は「しっかりなさってますね~。教えてくださってありがとうございます。」などと肯定的に接してくださっている。

 

…わたしも、そんな数字愛の父に助けられている。

いまも、わたしの計算間違いを教えてくれ、間違えないやり方も教えてくれる。

父の計算とわたしの計算がぴったり合ったとき、ふたりで「合ったね!」と喜べる。

こうして数字の明白さを分かち合えているときもある。

時間や日にちや薬の管理も、わたしまかせではないので助かる。

まだ他にもいろいろあると思う。

しばらく「ぶら下げて」暮らそう。

 

くわえて、数字以外はわたしの好きにさせてくれる。日々の掃除も洗濯も料理も、わたしのやり方で任せてくれている。

父は、掃除も洗濯も料理も、仕事をリタイアするまでまったくしない人だったが、母が、亡くなる前に数年かけて、父が一人で生きていけるようにと父に教えこんだ。

なので、一通りのことはできるのだが、父にはそれらへの特別なこだわりというか、掃除愛、洗濯愛、料理愛はとくにない。

それも助かっている。

 

今日は、そんなことをつらつらと考えた。

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