残存能力を補う

父の体重が減って42キロになった。

昨年11月末には45キロだったので、3ヶ月で3キロ減ったことになる。

もともと70キロくらいあった体重が長い時間(10年とか20年とか)をかけて減っていって、ここ数年は45キロくらいで安定していたので、3ヶ月で3キロ減は急な感じがする。

また、父は、疲れやすさと腰痛が増したようで、ベッドで横になる時間が増えた。

 

昨日の訪問診療のとき先生に話すと、3ヶ月で3キロ減っていることに少し驚いておられたものの、

「血液検査は異常ないですし、96歳という年齢から、たぶん、立位や座位を支える筋肉が落ちて、腰痛が出たり、疲れやすくなっているのでしょう。」とおっしゃった。

父が不満そうに「年やから仕方ないんですかの」と言うと、

先生は「96歳という年齢から考えて、(父)さんは頭もしっかりしているし、動けるし、とても立派だと思いますよ。」と言ってくださった。

父は「そうですかの」と言いながらも、前のように完全に自立した生活ができるくらいまで良くなりたいという思いが強いので、かわらず不満そうだった。

 

今の父は、介護認定では要介護4だが、自分でやりたい!、という意思がものすごく強い。

父から頼まれている以上のことをわたしがやると、「よけいなことせんでもええ」と言われるw

たとえば、父が飲むお茶は父のそばに置いているポットとお茶セットを使って父が淹れているが、父が「疲れた」などと言っている時に少しでも父に楽してもらおうと思ってわたしが淹れると「よけいなことをせんでもええ」と言われる、という風に…w

 

そんな自立心が父の気概となり、1年10ヶ月前の転倒による寝たきり状態から、夜間はベッド脇のポータブルトイレを使った排泄、日中は歩行器でゆっくりトイレまで行っての排泄ができるようにまでなったと思っている。

時々失敗して、紙パンツ+紙パットでは間に合わずに衣服やトイレやベッドなどを汚すことはあるが、それは父の記憶からすみやかに消去され、父にとってはなかったことになっている(笑)

父にとって都合の悪いこと・イレギュラーなことは記憶から消去されるのだ。

 

一方、ぜったいに父の記憶から消去されない、父にとって大事な習慣もあって、もはや父1人ではできなくなったことは、わたしの仕事になっている。

たとえば、父のお金の出入りの明細を記録して父に知らせることと、月に一度わたしが父の銀行へ記帳に行って、1ヶ月間の収支表を作ること。

他にも、1ヶ月に1度、父の薬の在庫数を確認して、災害時の予備を含めた在庫管理表を作ること等々。

わたしのやり方でやると、父にとっては理解できずパニックになるので、父のこれまでのやり方の通りにやらなければならない。

父が決めた日があって、その日までに必ずやらないと父が不穏になるから、面倒といえば面倒だ。

だが良いこともあって、わたしが作った表を父と一緒に見ることは、父にとっての楽しい時間で、父の頭の体操になり、認知機能の低下が横ばい状態で止まっていることに貢献しているみたいなので、これは大事なことだと思えるようになった。

 

1年半前に父が退院するときに主治医から言われた「手厚い介護」とは、

わたしがよかれと思うことやわたしのやり方でやって父の残存能力を奪うことではなく、

父が必要と思って頼んでくれたことを父のやり方で手伝うことで父の残存能力を補うことだ、ということが最近やっとわかるようになってきた。

父のおかげで、亀の歩みではあるものの、少しわかるようになるのはうれしいことだ。