弱音をはいてもいい

先日の訪問診療で、

先生と看護師さんの帰り際に、

父が「いつまでこんなことが続くんですかなあ…。」と言った。

いつも明るいおばさま看護師さんが、「そうですね…。」と切なそうにおっしゃり、

わたしは複雑な思いが交錯して何と言ってよいのかよくわからないながらも、「長生きしてください」と言った。

先生は父の肩に優しくさわりながら「また来ますね。元気でいてくださいね」とおっしゃって帰って行かれた。

 

この出来事を、数日後にあった「エピソード分析」を使ったカウンセリングの勉強会で、クライエント役の事例として扱ってもらった。

 

カウンセラー役さんに質問を重ねてもらっていくうちに、

無意識レベルの言語化されていないわたしの思いが言葉になっていき、

洞察が起こっていった。

 

わたしは、父に弱音をはいてほしくなかった、ということに気づいた。

父には、寿命が尽きるまで、先生やみなさんに支えられていることを有り難く思いながら、弱音ははかず、良いことも悪いことも受け入れて生き切ってほしいと願っていたことに気づいた。

 

じつは、わたしの記憶では、父はわたしに弱音をはいたことがないのだ。

…母は、48歳のときにリウマチとなり、脳梗塞、皮膚筋炎という膠原病も発症し、68歳で亡くなった。

その母の20年間の闘病生活の大部分を支えたのは父だが、父はわたしに弱音をはかなかった。

ほんとうに、たいへんだったと思う。

ひょっとしたら母には弱音をはいていたのかもしれないが、わたしの前では、しなやかで穏やかに、母のためにできることをしている父親だった。

母のこと以外でも、弱音をはいている父を見たことがない。

 

…わたしは、今の満身創痍ボロボロになっている父に、かつての父親像を無意識的に期待していたのだ。

 

「長生きしてください」と言うわたしの言葉の奥には、弱音をはいている父を否定して、弱音をはかないかつての父のようになるよう励まそう、という自己満足的な心があったことに気づいた。

 

弱音をはいてもいい。

わたしも、父と同じどうしようもない状態になったら弱音をはきたくなるだろうし、変に明るく励まされると、かえって孤独感を感じると思う。

 

これからは、父の苦しみを受け取り、訪問診療の看護師さんのように「そうですね…」と父の弱音をただ聞こうと強く思った。

それが「ともに歩む」ということだと思った。

(続く)