もう一度フロムを読もう

2月のオンライン論文読書会で、もう一度エーリッヒ・フロムが読みたくなった。

 

読書会では、前回に引き続き、野田先生の「アドラー心理学の基本前提(4)認知論」を読んでいる。

今回は、「ドイツ現象学」「ドイツ人間学的精神医学」「アメリ人間学的心理学」「アメリカ認知論」の項を読んだ。

ディルタイヤスパースフッサールハイデガーフロイト、ビンスヴァンガー、ロジャース、マズロー、エリスなど、

数えると25名ほどの、哲学者や精神科医や心理学者の仕事について、簡潔明瞭な説明がなされていた。

精神医学の近代史を概観できる項だった。

そのなかに、エーリッヒ・フロムへの言及もあった。

 

わたしは、学生時代、フロムを、よくわからないながらも、とにかく直感的に好きで、わからないまま、よく読んだ(笑)

わたしにとっての生き方の探求は、フロムからだったと思う。

 

フロムがいう「To have or To be  (持つ存在様式とある存在様式)」に惹かれた。

 

「To have 持つ存在様式」「To be ある存在様式」を平たくまとめると、

「持つ存在様式」とは、財産や知識、社会的地位や権力の所有に価値を置く生き方だ。

「ある存在様式」とは?

フロムは、仏陀やキリストやエックハルトマルクスの思想、旧約・新約聖書の世界に探りながら、思索を深めていく。

 

『生きるということ』のなかで、こう説明している。

「ある」ということによって私が言及しているのは、人が何も「持つ」ことなく、何かを「持とうと渇望する」こともなく、喜びにあふれ、自分の能力を生産的に使用し、世界と「一つになる」存在様式である。

 

「持つ存在様式」があたりまえの現代社会で、「ある存在様式」を実現するためには、具体的にどう行動するのだろう??と、若いころのわたしは大きなギモンを抱えながら暮らしていた。

 

縁あって、子育てでアドラー心理学に出会い、人生の岐路で仏教に出会った。

アドラー心理学と仏教を学ぶことで、わたし自身の「ある存在様式」が具体的にイメージできるようになってきたと思うのだが、

それをできるだけ正確に言語化するために、今いちどフロムを読もうと思う。