般若心経

7/4~7/7に、ドルズィン・リンポチェのオンライン『般若心経』のご法話に参加した。

「リンポチェ」とは、チベット仏教において、仏法を説く重要な方の称号だ。

素晴らしいご法話だった。

 

『般若心経』では、空性について説かれている。

とても難しいが、何度も何度も聞思修することで、薫習(心に習慣となって残ること)していく。

色受想行識は空である。

つまり一切法(この世のすべての対象とそれを認識する力もすべて)は空である、

だが空性とは、「無い」というわけではない。

空性とは、「実体として独立して存在していない」ということで、「なにかに依って存在している」ということ。

大切なことは、わたしたちは、ふだんの生活のなかで思いやりをもち、一切有情のために悪いことをせず、善いことをして暮らす、ということ。

つまり一切有情のために功徳を積む生活のベースがあってはじめて、わたしたちは段階的に空性を理解できる。

ベースがないと、空性の理解をまちがう。

…ということを丁寧に説いてくださった。

 

「なにかに依って存在していること」とは、縁起のことをおっしゃっているのだと理解した。

縁起とは、Wikipediaに、

他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。

水野弘元先生の『仏教要語の基礎知識』に、

現象の相互依存の関係を指す。それは現象は無常であり、常に生滅変化するものであるが、その変化は無軌道的なものでなく、一定の条件のもとでは一定の動きかたをするものであるとして、その動きの法則を縁起という。

と説明がある。

 

存在は空性であって「私」とか「我」という実体的なものはないことと、あわせて「私」とか「我」はたえず生滅変化する相互依存の関係の中で存在している。

相互依存で「私」と繋がっている「私以外」が幸せにならないと結局のところ、「私」も幸せになれない。「私」と繋がっている「私以外」が不幸だと、結局のところ、「私」も不幸だ。

そして、空性であるからこそ、わたしたちは、「私」という自己執着(我執)をはなれることを選べるし、一切有情ともに幸せになる行動も選べる。

空性と縁起は表裏一体だ。

 

『Passage Plus (パセージプラス)』11Lに、

アドラーは「共同体感覚」ということを提唱しました。「これはみんなにとってどういうことだろう。みんながしあわせになるために私はなにをすればいいのだろう」と考えることです。この反対に、「これは私にとってどういうことだろう。私がしあわせになるために私はなにをすればいいのだろう」と考えることを「自己執着」といいます。アドラー心理学の目標は、みんなが共同体感覚をもった世界を作ることです。

と書かれている。

 

法話を聴くことによって、そして「リンポチェ」という生きた仏教に接することによって、仏教という広大なシステムから、アドラー心理学をみることができる。

アドラーの共同体感覚という思想(哲学)について、そして共同体感覚を育成するための理論や方法の全体像の理解が深まっていく。

たいへんありがたい。


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