昨日は、アドラー流山の定例会だった。
とってもよかった。ありがたかった。
父の人となりをよく理解してくれている、長い付き合いの仲間たちとアドラー心理学のおかげで、父への尊敬の心を思い出すことができた。
昨日出かけるにあたり、
先日のバタバタした朝から学んだことをもとに、
父には前日に、「あしたは8時ではなく、30分早い7時半に行って、8時10分に朝の介助を終えます。わたしが行くまでにトイレは済ませおいてください。」とお願いしておいた。
朝行くと、父はトイレを済ませ、着替えをする椅子にドヤ顔でニコニコして座っていた。ちょっとかわいいなと思った。
ここまでは快調だった。
その後、着ていたパジャマと下着を脱ぎ、清拭をして、全身に3種類の薬やクリームを塗り、今日の下着と洋服を着るのだが、父の介助をしていると、父はずっと「はよう(早く)せんか」「はよう、はよう」とわたしに言うのだ。置時計を目の前に置いて。
わたしは、そんなに焦らなくても大丈夫、言わなくてもいいから、気が散るよ、と思い、イライラしながら「大丈夫だから」などと言って介助していた。
このイライラ話の部分を、定例会で取り上げてもらって、エピソード分析をしてもらった。
分析をしてもらうプロセスで、わたしがこの時の父に対してイヤだったのは、父が時間ばかり気にして、今すべきことや、全体が見えていないこと、だったと分かった。
同じようなできごととして、訪問看護での入浴のとき、父が「今何時何分だ、早く早く」と看護師さんを急かして、ゆっくり温まらずに予定時間より20分も早く終わってしまったということを思い出した。
また、リハビリや訪問診療の先生が、時間通りに来られないと(前の患者さんの具合により時間が読めないのだが)、父は寝て待っていればいいのに、「失礼じゃから」と椅子に座って待っている。座っているときついのだろう、だんだんイライラし出す場面も思い出した。人をこうして待たせるのは、父からすると無礼者なのだろう。
これらに共通する父の思いとして、
時間というものが、父にとって、人と繋がるうえでとても大切なものだということだ。
人々に無礼にならないために、今の父は、特に「時間」という、人々と共有できる目印を頼りに生きているのだと気づいた。
娘も無礼者であってはならないのだろう。
父は、もともとはたいへん穏やかで、声を荒らげることをしない人だ。
人を大事にし、礼儀を大事にする人だ。
そして気概のある人だ。
エピソード分析をしてくれた仲間たちは、「お父さまは、(身体能力や記憶力が下がった)今も礼儀を大事になさっている。」「今も自分でできることはなさっていて協力的だ」「大怪我で入院され、寝たきり状態からリハビリで歩けるまで努力なさって、それは気概があるということ。かっこいい。」などと言ってくださった(涙)
見た目じゃない。
見た目は、背中は曲がりぼろぼろヨロヨロのお爺さんになってしまっているが、父の人となりは何も変わっていないのだ。
それを仲間たちは思い出させてくれた。
おまけで、
仲間たちは、わたしが父と似ている、と言うではないか…w
わたしは時間にうるさくないのだけどな…。
しかし自分のことは、自分色の眼鏡でみるので、都合よく理解してしまう。
長い付き合いの仲間たちのほうが、わたしの人となりを良く知っている。
30年後に、わたしも周囲の人に「無礼者!」だとか「早く!早く!」と言っているのかもしれない…w