父は穏やかに暮らしている。
12月に入って、山口県に住む母方の叔父が亡くなったという知らせを受けた。
父から、「もう難しいことが考えられんようになったし、字も書けんようになったから」と、お悔やみをわたしにしてほしいと頼まれた。
喜んで引き受けた。
亡くなった叔父には、小さいころたくさん遊んでもらった。
母亡きあとも、何かと気にかけてもらった。
わたしにとってはたいへん親しみのある叔父だ。
お悔やみの手紙とお香典を父との連名で送った。
昨夜、妻さんの叔母からお礼の電話をいただいた。
久しぶりにいろいろお話できた。
こうして、これまで父がやっていた親戚付き合いを、わたしが父の代理で行うようになってきた。
わたしに任せてもよい、任せざるを得ないと、父が思ってのことだろう。
わたしの役割は、あくまでも「代理」というポジションだ。
ボスを支える秘書官として、ここは外してはいけない重要ポイントだw
どんなに「難しいことが考えられなくなった」父であっても、「代理」としての、父への丁寧な報告・連絡・相談は必須だ。
今回も、電話での叔母の話を、わたしがそのまま父に報告するのを、父は「は?」「なに?」と何度も聞き直しながら聞いてくれる。
理解できていないことも多々あると思うが、一生懸命にわたしの報告を聞いてくれた(笑)
そして、遺された叔母のことを、昔の(50~60年前の)記憶だと思うが、「あんな不便な田舎で独り暮らしするのは大変なことじゃろう。」と案じていた。
父は父方でも母方でも最年長の「大お兄ちゃん」で、若いころは特に、年下のきょうだいのためにたくさんの援助してきた。戦後の昭和20年代は、貧しくて、大きい子どもは小さい子どもの育児や教育を支えた。
わたしが生まれた昭和30年代も、当時大学生だった母方の叔父を、同居させて面倒をみていたこともあった。
父の認識はずっと「大お兄ちゃん」のままだと、改めて思った。
「今は便利になっていると思うので大丈夫だと思うけど…、時々、どうされているか、お父さんに代わって連絡をとりましょうか?」とわたし。
「それがよかろう」と父。
案件について「決める」のはボスだ。
…こうしたボスと秘書官のコミュニケーションは、今の父とわたしの「よい人間関係」のコミュニケーションだと実感している。
さまざまなコミュニケーションの形があるなかで、わたしの場合、このボスと秘書官のコミュニケーションは、父と話がたくさんできるし、互いに貢献感がもてる。なにより父と穏やかにつながることができる。
アドラー仲間の助けによって見つけることができた。
父の「代理」の役割をつとめるようになったことで、わたしが叔父や叔母と直接さまざまな話ができるようになった。
まだ相続などに関するいくつかの未解決の課題が残っているので、これはたぶん、みんなにとってもよきことだと思う。
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父の居間から見えるモミジが、今年はきれいに紅葉した。
剪定が適当で形がイマイチだがw、記念に撮っておく。